<社長の好き勝手> わが名は荒木宗太郎

2018年10月30日

歴史には偶然と必然と当然があります。長崎の町は1570年にポルトガル人によって作られました。これは日本史的には正しいのですが、果たして突然に長崎の町をポルトガル人が開いたわけではありません。世界史的には14世紀後半の航海技術の急速な発展によって、ポルトガルとスペインが世界の国々へと交易を広げたことによります。1492年にはコロンブスがアメリカ大陸発見、1498年バスコダガマのインド航路発見、1522年にはマゼランが世界一周を果たすのです。日本はまだ戦国時代です。

1570年以前の東南アジアの様子は、タイやベトナム、台湾には既にポルトガル、オランダ、イギリスが交易を始めていましたし平戸の松浦党は東南アジアへ船をだして海賊行為を行っていました。中国は明朝の末期で海岸線は倭寇の侵略に対抗するために遷海令をもって海岸線から内陸部へ町を移動していました。

そのために交易の中心が台湾、フィリッピン、ベトナム、タイとなりました。このような状況の中でいずれの国か日本との交易をするのは当然の流れでした。

そこで、平戸の松浦氏がポルトガルとの交易のために1550年ポルトガル人を平戸へ招き入れます。しかし、ポルトガル貿易はイエズス会の布教とセットだったので、何時までもキリスト教の布教をさせない平戸との交易は進展しないし、1561年に宮の前事件でポルトガル人が殺されたので平戸をはなれ、横瀬浦、福田、口之津をへて1570年長崎の町をキリシタン大名大村純忠が開港するのです。

 長崎の港が開かれたのは織田信長の時代ですが、長くしないで豊臣秀吉の時代へとなり長崎の初期の商人、村山等安は朝鮮出兵のために佐賀の名護屋城に来ていた秀吉に南蛮菓子をふるまったという記録もあります。1600年の関ヶ原の合戦以後徳川の時代となり海外交易のためには家康の朱印状が必要となります。このような船を使った貿易を朱印船貿易と呼びます。

 この朱印船貿易家の中でも、角倉与一、茶屋四郎次郎、船本弥七郎、木屋弥三右衛門、末次平蔵が有名ですが、今日の主役荒木宗太郎もいました。朱印船の船主は日本にいて雇った船乗りたちが航海へでていったのですが、荒木宗太郎ともう一人しか船主自身が航海に出て貿易をした商人はいませんでした。

1588年に長崎に来た宗太郎は熊本の武士だったそうですが時代から考えると、秀吉の島津征伐の時に敗れた熊本の豪族の家臣だったのか或いは加藤清正の家臣だったのではないかと考えられます。彼はオランダの東インド会社のVOCのマークをさかさまにして旗印としているようにオランダとの交易があったので、ポルトガル人がたくさん集まっている当時の長崎の街を避けて対岸の稲佐に住居を構えたのではないかと思われます。

1622年秀忠の朱印状をもってベトナムのホイアンへ交易に行った荒木宗太郎は広南国の国王に気に入られて国王阮(グエン)氏の王女を妻として長崎へ連れて帰ります。また、1620年には阮氏の貴族として阮太郎という名前をもらっています。1633年には海外渡航が禁止されたので、妻のアニオーさんは一度もベトナムへ帰ることなく一人娘の家須を残して宗太郎と同じ月日に亡くなります。そして、孫の伊太郎(3代目)から13代目の春草まで西築町の乙名として築町に暮らします。今現在16代目は山口に17代目は東京に暮らしているそうです。   昨年2017年11月にAPECに参加していた安倍総理の立会いのもと、長崎駅に置いていました朱印船をホイアンの街へ寄贈しました。その時は長崎の石灰町の根引きもいって船廻しを披露したそうです。何故石灰町が朱印船をおくんちに出しているかといいますと、ベトナムへ向かうときは船底に銅の地金を積んでいましたが帰りの便は絹織物や鹿の皮など軽いものなので船底に石灰を積んで帰り石灰町で下ろして漆喰の材料としました。ベトナムは石灰岩が豊富でダナンは石灰の石像がたくさんあります。

築町はといいますと、荒木宗太郎の子孫が乙名をしていたのに何もなかったのかと考えました。すると、昭和35年のおくんちの奉納踊りにベトナムの衣装を着て象の上に載った荒木宗太郎とアニオー姫とともに長崎ぶらぶら節を奉納していることが分かったのです。また、築町の御座船は熊本の殿様の船だと聞かされていたのですが、屋根の金の龍はなぜか?と疑問が湧きました。ベトナムは龍が創った国といわれ王宮には屋根の上から庭先まで多くの龍のモニュメントがあります。果たしてベトナムの龍、アニオーさんの意味なのか?

そこで本年8月17,18,19日にベトナム、ホイアンで開かれた第16回日本祭りに行ってまいりました。ホイアンの街は我々以上に宗太郎とアニオー姫の結婚がベトナムと日本の友好の始まりだと言って町の中に二人のモニュメントやアニオー姫の名前の王加久仁(ワカク)という名のジャパニーズレストランまでありました。さらに、石灰町の朱印船のミニ版の朱印船でホイアンの町中を宗太郎とアニオー姫を乗せて回っていました。まるで、おくんちの庭先回りのように船の上で演奏をして根引きが船を押して、先頭には菜振りらしき人もいました。

400年前の長崎人は大変にグローバルなインターナショナルな人々だったのだと改めて思いましたし、長崎の街のあちこちで発掘されている朱印船時代の遺物をあつめて朱印船貿易博物館を作っても良いのではないか、国内でオンリーワンのいや世界でもオンリーワンの博物館であり近年急速に深まっている東南アジア諸国との交流のきっかけにも繋がるのではないかと考えます。

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  • column 和食料理の基礎知識 だしマイスターへの道