南蛮船来航の波止場跡

元亀2年(1571)に長崎の港はポルトガル人によって開かれました。それまで中国などと少しの交易あったようですが、本格的に貿易港としてデビューして450年になります。

当時の東南アジアの様子は国際的なもので、インド航路を確立したポルトガルは1510年にゴアを占領、1511年にはマラッカをさらにモルッカ諸島を占領し東南アジアへの進出を図り、1557年明国よりマカオを割譲されマカオを拠点に東アジアの貿易を拡大していきました。

しかしながら鄭成功(ていせいこう)など倭寇(わこう)の活躍により、明国は海禁政策をとり沿岸部の住民を内陸部へ移動させていました。

そのような中1550年平戸へポルトガル人が来航し、松浦隆信と交易をはじめましたが、宮ノ下事件でポルトガル人が殺されるという問題が起こり横瀬浦へ港を移しました。横瀬浦も問題が発生し、そのあと福田、口之津と港を変えて1571年大村純忠の領地である長崎の地に港を開くことになりました。

この波止場跡地は石垣の下に位置し、先端の岬の教会のような場所ですが、大型のポルトガル船が横付けできるわけがなく小舟に乗り換えて上陸した場所であったと思われます。