© (一社)長崎県観光連盟
国指定史跡。寛永13年(1636)ポルトガル人を隔離収容するために埋め立てて造った人口の島が出島です。
当時、長崎の町に移住していたポルトガル人を隔離する目的でしたが、翌年島原の乱がおこり寛永16年(1639)に幕府はポルトガル人の追放と渡航禁止を決めたので3年にして出島は空き家となりました。
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そのため、寛永18年(1641)平戸にあった阿蘭陀商館をここへ移しました。以後安政の開国まで約220年間出島はオランダ屋敷として残りました。長崎には通常2隻のオランダ船が来航したので、破泊中は多くのオランダ人が出島に滞在しました。
しかしそれ以外の期間は、カピタンとよばれた商館長、ヘルトと呼ばれた次席商館員、貨物管理の責任者、倉庫長、出納や帳簿などを担当した書記役、商館長の補助員、医師などだいたい15名前後でこの他に調理師、大工などの職人とオランダ人の身の回りの世話をする外国人もいました。
商館長は、初代ヤックス・スペックから最後のドンケル・クルチウスまで合わせて163人を数えました。江戸時代日本で唯一の外国への窓口であったオランダ商館を通じて、日本とヨーロッパを結ぶ経済・文化の交流、日本の近代化に果たした功績はおおきいものがありました。